92歳新人賞をとられた三浦さんの家に遊びに行った。きっかけはInstagramで私が子どもの教室のことを取り上げているのを三浦さんが見てくれてDMをくださったのだ。
三浦さんは昔、子ども教室をしていてその道具をもし絵画教室で使ってくれるならもらって欲しいとわざわざ連絡してきてくれたのだ。
三浦さんの家に行くと丁寧に梱包されている印刷機や用紙等そして部屋にたくさん飾ってある絵画などあった
それらを車に積み込むと「お茶にしましょう」と、三浦さんは昔作った作品や子どもたちの写真を見せてくれた
1986年1990年と写真の裏には日付がみえた。三浦さんは私自身が子どもの頃の世代に教室をされていたよう?だった。(写真を改めてみたら98年とかだったw)写真の裏には1枚1枚〇〇君何年生、〇〇さん何年生と丁寧に生徒の名前が記載してあった。きっとこの生徒さん達、今は私と同じくらいの歳になってるだろう。
生き生きした子供の作品写真を見ながら、三浦さんはただ道具を用意するだけだったのよ。子どもたちはいろんなことしてくれて面白かったの。。そんな三浦さんの話がすごくいまの自分と重なった。
きっと子どもたちと面白がる私の姿をインスタグラムでみて、三浦さんも過去の自分と重ねて連絡してきてくれたのだろうなと思った。
1枚1枚作品を写真に収めてアルバムに貼ってある三浦さんと、いつも教室中に子どもたちの作品を1枚1枚撮らせてもらう自分とが重なる
話ははずみ、西条からきた私に三浦さんは若い時の話をしてくださった。
昔は原爆の投下された街中の中心部のほうに三浦さんは住んでいらして、広島市内に空襲があったら西条の叔母のところに行くように日頃から母と話していたそうだ
原爆の日は家に帰れず海田町まで歩き、そこから折り返しの電車があったから電車に乗り、西条まで電車で行き、、真っ暗な中を御園宇に住んでいる叔母の所まで家まで行ったんですと話をしてくれた。海田町までも遠いし、西条駅から御園宇もまあまあ歩くとある。昔はみんな歩いてたの。と三浦さんは微笑む。
1番大変な時であったよね。お母さんは今のあなたの年ぐらいだったんよ。かわいそうじゃったねと話してくれた
「じゃあ三浦さんはその後もう50年もお母さんよりも長生きされちゃったんじゃね。」って私が言うたら三浦さんが
「お母さんはあの世でびっくりしとるじゃろうね、よう生きたねー言って言ってくれるやろうねぇ」
私はもう胸がいっぱいで何か沢山話したいし聞きたいけど、もうただ、私は三浦さんと会えてよかったって思った。そして三浦さんと別れた。